先日、能楽師である森澤勇司さんの【世阿弥に学ぶ会】に参加してきた。
主催はLDM講師でご一緒しているかみありけいさん。
能をこよなく愛する彼女の情熱に動かされ
今年の1月、初めて能の舞台を鑑賞したところ
一言では語り尽くせないほどのものすごい振動を感じた。
そして4月には能の世界をほんの少し、体験することもでき
昨年までは全くの未知の世界だった能が
少しだけ私の世界に入ってきたのを感じている。
で、7月には今回はこの本の著者でもある森澤さんに
これまた友人の誘いで
【開運!なんでも鑑定団】でおなじみの北原さんのお宅でご縁することができた。
↓リクエストに応えて小鼓を手先だけで組み立てていく森澤さん。
小鼓の調べを間近で体験することができて感動^^
あれから1ヶ月。
今回は小鼓ではなく、世阿弥の教えを
私達にわかりやすいようにワークショップ形式で伝えてくださった。
テーマは【離見の見】
離見の見(りけんのけん)という言葉自体
私にとっては未知の言葉。
調べてみると
世阿弥が能楽論書”花鏡”で述べた言葉らしい。
離見の見とは
演者が自らの身体を離れた客観的な目線をもち、あらゆる方向から自身の演技を見る意識のこと。
反対に、自己中心的な狭い見方は「我見(がけん)」といい、
これによって自己満足に陥ることを厳しく戒めている。
現在でも全ての演技にあてはまることとして演者に強く意識されている。
ふむふむ。
見(けん)とは目に見えるもの、こと。
目に見える、とは
自分にも他人にも目に見えてわかること。
つまり、誰が見ても具体的かつ物理的に認識できることが条件になる。
森澤さん曰く
世阿弥の教えは全て前提がある、とした上で
離見の見とは
自分がどうしたいのか、どう在りたいのか、どう見られたいのか、という
前提ありきで語られる必要がある、という。
我見(がけん)とは
人にこう見られているハズ、と思う自分の姿。
自分が思う「こうありたい、こう見られたい」という前提がない上での客観視は全て我見だ、と。
日常生活の中でもあるだろう。
「あぁ、この人は私のことをこう見ているんだろうな。」とか
「私ってしっかり者って思われているみたいだけど、本当は違うのになぁ…」等々。
これらはすべて我見。
それに対して離見とは
実際に他者が自分のことをどう見ているのか、という姿。
つまり、離見とは永遠に自分がわかり得ぬもの、と。
とはいえ、エゴサーチはこの離見を知る術かもしれない。
その場合、アンチも含め全てのコメントに一喜一憂せずに受け止めることが必要となるだろうが…。
また、友人や知人に
「私は何をしようとしている人だと思う?」と聞いてみるのも一つだろう。
つまり【離見の見】とは
前提 「私はこうありたい」があって
我見 私の言動を見て「きっと私はこう思われているだろうな」
離見 他者が私の言動を通して抱いているイメージ
この3つが全て一致していることを指し示す言葉だ。
その見(けん)に必要な観点は3つ。
視点…フォーカスしているモノ
視野…見ている範囲
視座…一点から見るのではなく、様々な角度・立ち位置から見ること
視点・視野を変えたとしても
見ている立場を変えなければ同じパターンを繰り返す方向に。
そもそもの前提を変えなければ同じところをぐるぐるしてしまう。
その状態を担板感(担板漢)という。
↑ 担板漢のイメージ
板を担いでいる人が片側しか見えなくなるのと同様に
自分で何でもしようとすると、いつの間にか偏ってしまうよ、という例え。
因果の定義も興味深かった。
通常の原因と結果、という解釈だと
因は結果をつくる元、きっかけ、という意味合いをイメージするが
ここでいう因とは
果を作り出した習慣のこと。
つまり、果(現状)に注目してみて
自分にとって好ましい状況であれば、
その因は好ましい状況を作り出した日常の習慣が効果的だった、ということであり
逆に好ましくない状況、つまり問題だ、と感じているのであれば
その行動習慣がそのような現実を作り出している、というわけだ。
つまり間違った因(習慣)を設定すると、
やればやるほど果(得たい状況)からは遠ざかる_| ̄|○
これを日常で落とし込むワークを紹介。
① 今の問題、課題を明確に書く
② その問題が解決してどのような果を得たいのかを書く
*この時、感情や状態ではなく、誰が見てもそうだよね、と確認(計測)できる結果を書くのがポイント
③ ②が得られた具体的な行動習慣をイメージする。
④ 実際に行動する。
この時、大事なのが
自分はどういう人間なんだ、という自分に対する前提があること。
セルフイメージという前提。
その自分だったらどんな部屋に住んでいるだろうか。
その自分だったらどんなライフスタイルを送っているだろうか。
その自分だったらどのように在るだろうか。
などなど、
自分に対する前提ありき、で考えてみると
自ずと考え方、捉え方、行動習慣も変わってくる。
つまり、
自分のセルフイメージ(前提)が自分の行動習慣を喚起し、現状を創りだしている。
だとしたら
今の現状は本当に私が望んだものだろうか。
と、
果(現状)から問い直すこともできそうだ。
果が嫌なら前提を変えること。
その上で
その前提に見合う行動量があるかどうか。
また、見合う行動量に(他者から)見えているかどうか。
これを意識すること。
そうしていくうちに
果と我見と離見
全てが一致している離見の見が成立するときが来るから。
それにしても難解であった。
私自身は客観的に物事を見ている、と思っていたのだけれども
今回のワークショップでは
普段、どれほど感覚的に物事を判断しているのか、と気付かされた。
世阿弥の教えは実に示唆に富んでいる。
が、深すぎて一言では言い表せない。
能の世界がそうであるように
教えとは言葉で言い表すものではなく
体得していくものなのだろうな、と感じる。
兎にも角にもこの日、私は
離見の見という視座を手に入れた。
有り難し。
「目を前に見て、心を後(うしろ)に置け」 by世阿弥