印象的な授業

 

中学に入学して最初の理科の授業の時、
先生がおもむろに原子記号表を配った。

 

「まずこれを見ろ」

一言だけそういって黙った。

 

私達はその意図がわからず、ただなんとなく眺めた。

時間にして、多分5分ほど経った時、
先生が質問した。

 

「何か質問があるか?」

 

誰も手を挙げなかった。
私も手を挙げなかった。

 

なぜなら
原子記号表なんだな、とだけ認識していたからだ。

そして
これから教わるものなんだな、としか思っていなかったからだ。

 

すると先生はいきなり質問した。

 

「質問はないんだな?
じゃ、ここに書いてあるÅは何か説明できる奴、手を挙げろ。」

 

誰も手を挙げなかった。
もちろん、私も。

 

「なんだ、誰も手を挙げないのか。
じゃ、これから指すぞ。浅香、答えてみろ。」

 

いきなり指名されたが
もちろん、答えられるわけもなく、こう答えるしかなかった。

 

「わかりません。」

 

「なに?!
わからないのになんで質問しないんだ!!」

 

先生はいきなりキレた。

 

これが最初の理科の授業だった。

そこから、この授業はいつも緊張を強いられた。

 

わからないことは何か。
自分がわからないことを探す授業となったからだ。

 

ある意味、これは私にとって象徴的な経験となった。

 

わからないことをわかる。
わからない部分がわかる。
どこまでわかっているか、がわかる。

 

曖昧なものごとに対し
問いをたてることで輪郭を持ち始め、
段々と明確にしていくプロセスを
説明されるでもなく、一気に体得した瞬間だった。

 

インターネットが発達して
瞬時に答えが得られる時代となって
人々はすぐに検索行動にうつるようになった。

 

検索すれば一から十まで丁寧に
動画で懇切丁寧に解説してくれる。
大幅な時間短縮ができ
ある意味、
思考を使わずともその通りにやっていけばできるようになる。

 

それがいいとか悪い、ではない。

しかしながら、なんとなくできたことは
なんとなく嬉しいが、
自分でできるようになったよろこびにはほど遠いのだ。

 

理科の授業の時
何度となく、問題を出され、正解を導き出した生徒から
何度も何度も黒板の前で解説させられた。

 

その解の導き方は同じでも、
説明の仕方はそれぞれだった。

そして、黒板の前でみんなに向かって解説するたびに
自分が納得理解できていくことを体験した。

そうやって自分の中に腑に落としていったことは
いつでも再現性があるということを発見した。

 

人から教わるんじゃない。
自分で掴みにいくんだ。

 

あの授業でそれを学んだ気がする。

 

 

 

*Å( オングストローム / angstrom )
長さの補助単位で、10の-10乗=百億分の1メートル。
電磁波の波長測定や、原子物理学・結晶学・分子学などで用いる。

記号 Å または A で表す。 http://hensa40.cutegirl.jp/archives/5396より